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生殖の哲学

配偶子提供に関してどのような法規制をするかは議論のある大きな問題ですが、より深くその問題を考えると、生殖のあり方自体の哲学に行き着きます。

家族はどうあるべきか?

仮に、生殖補助医療を認めた場合、その対象にFtMと女性のカップルや、LGBTカップル、選択的単身者を含めるか、含めるとしてどのような条件を課すかが問題となります。これは家族のあり方の問題です。さらに、配偶者控除や各種助成金等のメリットを考えると、「誰に対して結婚や子を持つことによる経済的・社会的利益を分配するか」という問題に行き当たります。

子どもの選択はどこまで許されるか?

現在、ダウン症等の一定の重大な疾患を原因とする人工妊娠中絶は、事実上認められています。しかし、科学が発展してより多くの疾患が判定できるようになった場合、どこまで人工妊娠中絶を認めるべきでしょうか。これはいわゆる消極的優生学の問題ですが、知能や運動能力が広範に判定できるようになれば積極的優生学の問題も生じえます。

仮に、配偶子提供が完全に自由となり、かつ高度な科学により生まれてくる子どもの能力や遺伝リスク等が詳細にわかるようになれば、任意の受精卵を「完成品」として選択し、「失敗作」は排除する、ということができてしまいます。また、経済的理由等でその恩恵を受けられなかった子どもが「不完全」として差別されることもあり得るでしょう。

このようなことには私達は嫌悪感を示します。倫理的に許されないと義憤を感じます。しかし、今の世の中には、同性愛自体を許容しない(つまり、彼らが生殖補助医療で子を持つことも許さない)人もいますし、どんな場合でも人工妊娠中絶をすべきでない、という考えの人もいます。生殖に関する倫理観は現時点でも一致していません。科学の発展と社会の変化に伴い、この倫理的ギャップの問題は拡大していきます。

Reproductive rights vs Children’s rights (子どもを生む権利 vs 子どもの権利)

生殖補助医療や個人間配偶子提供で今まで子どもを作るのが困難だった人が子どもを作れる可能性が出てくると、それを行使するのは親の権利だという主張が成立しえます。しかし、これは生まれてくる子どもの権利と対立しえます。出生後の環境や、AIDの事実を隠蔽していたことなどが原因で、アイデンティティ・クライシスに陥り、ドナーや親を恨んだり、生まれてこなければよかったと考えている子も存在します。子どもを生む権利の行使は、このような子どもの権利の侵害の可能性を常に秘めており、それは子どもを生む権利の内在的制約となります。

生殖補助医療を考えることは、生殖の哲学を考えることである

上記のような問題は、一定した答えはありません。我が国においては、様々な人の議論を通じて、民主主義のプロセスの中で決めていく必要があるでしょう。それは生殖の哲学を構築するプロセスと一致するといえます。

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